加藤苑 EN KATO # Official Website / CONCEPT

人やものの存在とは、意識や感情を伴う経験によって成立する。それが視覚的、又、物質的なものであれ、
実在することの多くは個々の不視覚的な経験に左右されると考える。

 2005年の半ばより自己の認識をテーマに、生と死を意識し、作品には“手の殻”〈線のみで描かれ中身の抜けた
手形〉を使用してきた。365個や31個等の“手の殻”を並べた「カレンダー」シリーズでは、観る者が1つ1つの
手形と各々の1日とを重ね合わせ自己を確認していくことを目的とし、2元に挟まれたグレー・エリアに無数の
“手の殻”を混沌と配した「ポジション」シリーズでは、自己の選択肢(手形)を様々な形にすることで、一見
限られた中における人の在り方の多様性を表現した。

  “線”は、実際には存在せず面上に於いて実現可能なものであり、引く・描く行為自体による身体性と、作家の
見解や感情・癖等がより明確に表れる場所でもあり、存在というテーマに適する1要素であると考える。
又、手相や指紋等遺伝的な要素と、職業や生活による環境的な要素のどちらも顕著に現れる“手”は、顔同様
“個”を特定出来る特別な部分である。その個性をあえて消去し、殻又は箱である手形は、個々が自由に出入り
可能な“モノ”として画面上に存在する。


 2007年以降は制作を序除に主観的な視点へと移行、より平面的・装飾的な画面にし、単純化した細かな“文様”
を用いることによっても「身体性」を表現した。装飾するという行為は、人やモノや空間を華やかに見せると
同時に、空虚や欠点などと言われる“何か”を埋める行為であり、表面に出ることを望まない何かを隠す為の
行為でもあると捉えている。 

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 現在題材としているものは、空虚・矛盾などといった不可視的な要素を含む“存在の認識の曖昧さ”である。
可視的なものや一過性のものに対する“空虚”や、自由であることの中に生まれる“矛盾”と“空虚”。 視覚可能な
表面と、視覚不可能な内面、その相互作用。何事も、幾つかの相反する要素を持ち合わせる。又、ものごとに
対する認識も、各々の中で事実・真実というものが異なる。


 作品は、“線描の重複”による人物像と、顔のない人物の“顔”を描いた「仮装シリーズ」の、異なる2つの
表現の作品を平行して制作している。

 独特の線描を重ねることにより浮き出る何処か現実味のない人物像では、混沌とした中にも静寂を感じさせる
画面を意識し、時間の推移による動きの変化と、それに伴う存在の認識の曖昧さを表現している。平面的に構成
した画面の中にあえて空間と時間をを盛り込み、限られた画面の中で一義的な意味を確定しない形を可視的に
提示する試みは、落ち着いた色味による安心感と裏腹に、何処か危うい不安定さを持ち合わせている。

 「仮装」シリーズは、平面的・装飾的に描いた 顔のない人物の“顔”である。ネット社会と言われる現在の
情報社会の中では、何かと「表現の自由」を掲げて無責任な意見や情報が行き交い、なかなか実態の見えない、
顔の見えないものが多い。CGやメディアによるバーチャルな経験が自然と増え、どこか現実や自己に対する
認識が曖昧になりつつあるのではないか、思うことがある。又 一部には、流行や企業の戦略に踊らされ、
似たような格好やメイクをし個々の見分けがつかない人々や、表面ばかり繕い 人としての中身が伴わない人々も
いる。そんな現代の空虚感を、ポップな画面で皮肉的に表現している。


 平面をあくまでも平面として捉えた画面作りは、自分が日本人であるという意識からである。現在は神仏習合が
主、若しくは現状無神教の人々も多い日本ではあるが、元々は多神教を源とし、西洋の人道主義と対を成すその
自然主義的な考え方は、現在も日本人の精神奥深くに根付いていると私は感じている。エコロジーがアニミズム的
要素と捉えるほど現在の社会を肯定的に見る事は出来ないが、平面を平面として独自の表現を遂げてきた日本の
美術・カルチャーは、在るものを在るがままに捉える自然主義精神に由来するものと考えている。

 今後も引き続き試行錯誤を繰り返し、人々の「存在の認識」について、様々な提示をしていきたいと考えている。

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